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18時~20時 × × × ×
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14時~16時 × × × × × 〇(※)
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今昔木津川物語(058)

◎ あとがき


   あとがき

 人は人生の岐路に立たされたときに、一体何をしなければならないのか。それは、足元を見直してみることだと云われている。この場合もちろん、自分の置かれている立場という意味もあるが、私はあえて、現に住んでいるところ、いま立っている場所を問題にしたい。これなら「見解の相違」ということも起きる心配はないのではないか。
 「まあこれが終のすみかか雪五尺」一茶。の、心境からの出発だ。そうすると、全く何も知らないことに気が付き、がくぜんとする。私もそうだった。悩んでいるどころではない。自分の存在すら、確認し直さなければならないのだ。
 頼りにしていた、大正時代発行の「西成郡史」を開いてぴっくり。今の西成区のことはほんの少ししか載っていない。ほとんど西大阪地域のことである。図書館から借りた「西成区史」には、在り来たりの名所・旧跡の案内ぱかり。しかしその中から、「殿下茶屋」が「天下茶屋」になった、という説明に疑問を持つ,ちょうどその時「天下茶屋史跡公園」抹殺の現場にぶっかり、 大阪市や区役所の「好きやねん西成」キャンペーンのええかげんさ、矛盾がだんだん見えてくる。逆に私の中にやる気がわいてきて、のめりこむきっかけになったという次第である。
 私は史料万能主義者でなない。庶民の立場から大胆に仮説を立てて、史料で裏付けをとっていくやり方をしている。不明な部分は、私の我流の推理としてすすめていく。「逆説古代史」に対して、私のは「逆説郷土史」である。意識していなくても、自然とそうなっていく。それほど今の「公認郷土史」が歪められているのである。
 私は約十年前から「郷土史」を書き出している。木津川沿岸の西成・住之江・大正・西・浪速区とそれらの区に隣接する、住吉・阿倍野・天王寺・港区を対象としている。もちろん昔は、こんなに細かく区分されていなかったからである。私の場合、この郷土史探究の活動が、幾度かの人生の岐路を乗り切るのに大いに役立ったと思う。今も心を癒してくれている。もちろん、宗教色はいっさいなしにである。何故かといえば、やはりこの地で、かって「生きて、悩んで、かくたたかった人がいた」という事実が実感として味わえて、それに少しでも自分が新しい光を当てることが出来たという、誇りと喜びを持てたということではないだろうか。
 そして今で五十七回になる毎月一回の、「木津川史跡めぐり三時間の旅」で知り合った多くの素晴らしい仲間たちとの交流がある。この喜びを一人でも多くの人に知ってもらい、川の流れが自然に豐かなものになっていくように、郷土史研究の今後を展望してこの度、「今昔(こんじやく)木津川物語」(ご家庭保存版)を発行した。
二〇〇三年七月
        が も う 健

   参考文献 大阪府史・大阪市史・西成・住之江・大正・西・浪速・住吉・阿倍野・天王寺・港区史・大阪史跡事典

【編者注】
 これで、『今昔木津川物語』のアップロードは、最終になります。引き続き、『次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記』 をお楽しみください。

がもう健の郷土史エッセー集目次

今昔木津川物語(057)

◎波切不動尊 (西成区聖天下ー 一六)

 聖天下一丁目にある波切不動尊は、水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和十四年七月十日、現在の北津守地区で発掘され、大きさは四尺七寸、同年西宝寺のそばに祭られた。

戦時中は空襲の難のがれに

 戦時中数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難を免れたことなどから日ごと信者が増え、不動さんは願いをこめてかけられた水で黒びかりしている。
 今から三百年程前までは海中であり、その後津守新田として造成された土地から、こんなに立派な仏像がどうして掘り出されてきたのかという、歴史の謎が浮かび上がってくる。

信長鉄砲を受け命からがら

 考えられることの一つは天正年間 (一五七二)、本願寺門徒が織田信長と戦った際、当時石山本願寺は毛利氏と結び毛利の兵船八百艘に糧粟二万俵を積んで木津川に入らんとし九鬼嘉隆らが兵船三百余艘でこれを遮り、石山方は木津・桜の岸などの諸塞兵を出してはげしく戦い、遂に石山軍勢が勝ちを制して糧食を石山城に入れた。当時、信長は足に鉄砲を受け、必死になって現在の出城通りから天王寺に逃げ帰っている。

老若男女決死のたたかいを

 このときに、石山方は木津川河口にありて、海上との連絡をとらんがために木津砦を設けている。四方八町の砦には本願寺木津総門の老若男女が各我家を棄て籠城し、中に高櫓をたて見張りをしたが、その石垣は飛田墓地の五輪石塔を夜中に引き抜いてきたものであったという。しかして、その地より今も墓石を掘り出すことありと云えば、飛田墓地より運び来りて石垣に利用せしものたらん、とその後永らく伝えられてきている。
 織田信長は大阪にとってはまったくの侵略者であった。
 鬼のごとき信長とたたかうために、わらをもすがるおもいで、飛田墓地から不動明王を持ち出したのかもしれない。それがその後の新田づくりで地中に埋もれて、四百年後に台風で姿を現してきたとか…。

市場・商店街と四方さん

 日本共産党の大阪市会議員を西成区で五期二十年間つとめた四方棄五郎氏は、選挙戦の打ち上げの演説会をいつも地元の波切不動明王横の西宝寺をかりておこ
なったが、聴衆には市場・商店街の人が多かった。
 四方さんはつねに市場・商店街がさびれるということは、街から活気と人情と文化がなくなっていくことだと、大スーパーの横暴をきびしく批判していた。

ス—パ—と小泉で大被害が

 その四方さんが永眠されて早六年。今年の九月十一日が七回忌だという。この間に西成区には大スーパーが次々に進出し、 地元の市場,商店街にははかり知れない打撃を与えた。これに追い打ちをかけたのが「小泉不況」の襲来。
 「構造改革なくして景気の回復はなし」とお題目のように同じ言葉をくりかえし、批判は一切許さない。というのであれば、信長流独裁者としかいいようがない。四方さんが愛した市場や商店街は今やシャッ夕—通りと化し、貸し店舗の看板だけが寒風に揺れているのである。

波切さんに悪政除けを願う

 悪政の被害を全国一こうむっているのが大阪だとすれば、わが西成の景気は全国一深刻だという事になりかねない。今度は波切不動尊に「悪政除け」になってもらって、そして願いだけでなく、被害者は全員立ち上がってたたかおうではないか。四方さんどうか見守っていてください。

今昔木津川物語(056)

◎続万代池

 前回の木津川百景で万代池について、「まんだ」とはアイヌ語の古地名であったものを、後世の人が「万代」と当字したのではないか「まんだ」とは一体何のことなのか。それが判れば、万代池が元は何であったのか、聖徳太子がこの地で退散させたという「魔物」の正体も判るであろう。と書いたところ、多くの方から「これは前編ではないか、後編を続けてかくように」との「要請」を受けて正月休みに少し頭をひねってみた。

「ま」は古地名で「入江」

昭和三十二年(ー九五七)に大阪市立大学新聞会より発行された、畑中友次氏の著書「古地名の謎近畿アイヌの地名研究」によれば、「ま」はアイヌ語では入江をあらわす言葉として使われており、例えば米原(まいばら)駅のある旧村名は入江村であり、「まとほ」は小さい入江のことで、松帆(淡路)、間遠(伊勢)、的形浦(伊勢)などが今も地名として残る。
 大阪市阿倍野区の松虫もこれまではこの地にあつ<ママ あった?>松虫塚によって地名が出来たように伝えられていたが、此の地の地形を見ると「まつい」(入江があるところ)が語源であることが判る、というのである。更に隣接する西成区の松田町についても「まつら」という「入江の低いところ」というのからとったのではないか。

今も根強く残る古代の地名

 「ま」というアイヌ語が入江に関係するのもだとすれば、木津川百景に出てくる地名の「粉浜」「勝間」「釜ケ崎」そして「松虫」「松田」などの地名の由来を今まではかなりこじつけてきていた問題が、例えば「勝間」は「古妻・古夫・古間・木積」などからきているというもの
だが、一挙に解決ということになるのである。
 答えは、これらの地名は今も上町台地の裾にある町の名であることから明らかなように、かつての二十爲近い崖のあちこちにあった入江に由来するものだということである。字を持たなかった古代の住民は、入江を区別するために「ま」の前後に付足しをしていたのだろう。

深い入江に来襲する巨大な津波

 さて、問題の万代池のことであるが、これが入江だとすれば相当に台地に入り
込んだ、するどいものであったということが地形からも想像できる。
 次にいよいよ、深い入江の近くに住む人々にとっ て何よりも恐ろしいものとは何か。それは地震のときの津波である。安政の大地震で大阪で多数の犠牲者を出したのも津波であった。木津川・安治川・尻無川を巨大な津波が牙をむいてかけ昇り、前日の地震の余震を恐れて、川に浮いた船の中なら大丈夫だろうと千八百の船の中に避難していた数千の人々をあっという間にのみこんでしまったのであった。津波はまた十ヶ所の橋も落橋させた。

危険な入江を埋めて池に

 「万代池」の入江も大変危険な場所であったに違いない。永年にわたり多大な被害がもたらされていたことだろう。そこで人々はこの入江を安全化するためにただ祈祷するだけでなく具体的な対策に乗り出した。
 それは、入江の入口を埋め立てて入江を池にしてしまうとい、つ思い切ったものだった。そのためには、莫大な労力と土砂が必要だ。労力は住民の切実な要求でもあるので、力を合わせてやり遂げるとしても、土砂の調達については困った。そこで人々は思い切って近くにごろごろしていた古墳のひとつを取り崩して、入江埋め立ての土砂にしてしまったのである。

巨大古墳が消えた謎も解決

 「大阪市史」によれば、現在史跡となっている帝塚山古墳の北東方に隣接してこれをはるかに上まわる規模の、前方後円墳の痕跡が地籍図からたどれるというのである。現状では墳丘は全く形を止めず、古墳の中軸線に当たる所を南海電鉄の高野線が縦断している。
 明治時代になってから、歴代天皇の墓をあちこちの古墳にこじつけてから、いわゆる御陵については「厳重警戒」体制になった。しかし、その他の古墳は戦後も大分してから、立ち入り禁止になったりしたが、それまでは子供達の絶好の遊び場、自然とのふれあいの場でもあったのである。まして、大昔のこと古墳を開墾して田畑にすることなどは、日常的にやられていたことである。
 また、入江を池にしてしまうことでは、住吉大社の太鼓橋の下の池もそうだと伝えられている。
 最後に、聖徳太子が曼陀羅経を上げて退散させた魔物とは。今も万代池の中之島に祭られているのが「龍王大明神」であることからみて、龍であることに間違いない。龍は海に住む架空の怪物であり、人々に鎌首をもとあげて襲いかかるといわれ、結局は地震での津波を龍に見立てたというのが正解。
 以上が私の大胆な推理なり。

今昔木津川物語(055)

◎万代池 (住吉区万代三)

 熊野街道沿いに南へ、阪堺電車上町線の帝塚山三丁目駅から帝塚山四丁目駅へ行くほぼ中間の東側に、万代池がある。
 今は人家が立て込んで、街道より少し東へ入ったところになっているため、見逃してしまうかもしれないから、注意が必要だ。
 しかし、発見するや初めての人なら、思わず目を見張って「ほお一」とか「あれ一」と声を上げてしまうだろう。市内ではめずらしい、周囲約七百蓊の巨大な楕円形の池で、真ん中に小島もある、堂々たる風格の代物だ。

感動のない人いらっしやい

 最近物事にあまり感動しなくなっている人は、ぜひとも訪れてみたらよい。後悔はしないと思う。
 池の畔に等間隔で植えられた染井吉野の桜の樹が、四月の初めに一斉に開花して、やがて満開となり、春の風に花吹雪となり、歩道にピンクのじゅうたんをつくる。鏡のような池の面はその情景を忠実に逆さまに映している。市街地の中の花見では、私は文句なしにここが「日本一」だと確信する。

桜の花には何の罪もないが

 しかし、万代池も池面に映る永い歴史を、さまざまな思いでみてきたのではないだろうか。池の北側の広場には、大きな「忠魂碑」がいまもある。戦中、多くの若者が、いや最後には父親までもが、この池を家族や親戚、友人たちとゆっくりと一回りして、万感の思いを胸に、あの侵略戦争に出征軍人としてかりだされていった。「桜の花のようにいさぎよく死んでこい」といわれ、かれらが 最後に仰いだ万代池の桜。池の北側に十年程前まであった、府立女子大の先輩たちもよく小旗を手に、出征の列を見送ったと聞く。

敗戦で花よりダンゴの時代

 戦後、池の柵は薪として持ち去られ、桜の花も忘れて人々は、池の魚に群がつた。どじょうの化け物のような大物を釣って、みんなで食べるといっていた人は果たして無事だったのか。
 しばらくして、池に貸しボートが登場した。地元の新制中学の生徒が、男女でボートに乗っていたことが大問題になり、友人たちは退学処分反対の対策を考えていたが、「厳重注意」だけで終わったということもあった。当時、流行歌では「湯の町エレジー」が大ヒットしていた。
 日本の経済成長にしたがって、花見もしだいに豪華になり、カラオケのセットも業者が出張してやるようになり、池面に歌声が響き渡ったりした。
 そして今は、大型開発による税金の無駄遣いで財政赤字の府は、女子大跡地をマンション用地に売り払うため、後に入っていた府立貿易専門学校を廃校にしようとしている。

古代は古墳か崖の割れ目か

 古代この池には大小の古墳がひしめきあっていた。今でも近くに帝塚山古墳が市内で唯一、前方後円墳の形のまま残っている位だ。
 万代池も古墳で中の小島が古墳で、池が周壕だという話もあり、小島が貧弱なのは長年の間に波に浸食されたというのだろうか。
 他に、上町台地の割れ目を塞いで池にしたという説もある。

曼陀羅経で退散させた魔物

 伝説として、この池には不思議な魔物が住んでいて往来の人々を苦しめるというので、聖徳太子がこの池で曼陀羅経をあげて魔物を退散させた。万代池の名前の由来はそれからきているということである。池の中央に今も、古池龍王が祀られているところをみると、魔物とはやはり龍であったのか。
 万代池の「まんだ」は奈良時代の「地名は好字二字にせよ」との勅令によるものと思うが、万代はその時の当て字だと思う。もともと「まんだ」とは古地名にありアイヌ語ではないか。一体、アイヌ語で「まんだ」とは何なのか。それがわかれば、魔物の正体も判明するかも知れない。

今昔木津川物語(054)

◎宝山寺・十三仏(住吉区住吉一ー 五)

 平安・鎌倉時代に盛んであった「蟻の熊野詣」の熊野街道も、今では路面電車や自動車の行き交う基幹道路となり、その面影は阿倍野区では阿倍清明神社や阿倍野王子神社辺りに少し残るだけである。
 しかも、住吉区に入れば帝塚山周辺はマンションがでこぼこに建ち並び、かつてのお屋敷町としての趣は無く、わずかにチンチン電車だけがすこしレトロな気分にさせてくれる位だ。

「神ノ木」から史跡ゾ—ン

 上町線の帝塚山四丁目駅から、たった一両の電車が左右に力—ブしながら、こころもとなげに坂を登り、次の「神ノ木」駅へと姿を消していくと、後には街道だけが残った。

 熊野街道はこの辺りから線路とは逆に少し下り坂となり、ー柄何の変哲もない道路を南下する。しかし、南海電車高野線の踏切を越えて左に曲がり少し行きだすと、沿道の雰囲気は段々に変わってくる。それもそのはず、この辺りは江戸時代から、足利、南北朝、鎌倉、平安、奈良、飛鳥、古墳、そして神代の時代に至るまでの史跡が、大和川までの約半里(二キロ㍍) の熊野街道を中心にして「密集」しているのである。

誰でも「懐かしく思う町」

 郷土史愛好家がもしこの地に足を踏み入れたなら、「なぜ」「なぜ」の言葉を連発し、しばしぽうぜんとするにちがいない。なんとなれば、これだけ「一級品」の神社、仏閣、文化財、史跡が戦前の姿のまま現存して、しかもそれらの多くが今も活発に、何百年来の活動を続けている。また、それぞれが、おそらくは経済的には悪戦苦闘しながら、拝観料等は一 切取らず、万人に独自の景観を提供し、森や大樹を保護育成し、環境にも永年に わたり貢献してきている姿を見るからである。
 しかも、周辺の酒屋、米屋、味噌屋等の商店が、江戸時代のままの店舗を残してくれていることにも感激させられる。 しかもそれぞれが盛業中である。
 実は、これらの家には、かつて絶世の美少女がいたし、スポーツ万能のすこしはにかみやの好少年がいた。共に私の、 終戦直後の新制中学二期生の懐かしい同級生である。

いつか「大阪南部百景」を

 上町台地の北側には大阪城があるが、その以前は石山本願寺であり数多くの神社・仏閣がそれを取り巻いていた。今ある「寺町」は徳川幕府の戦略として、その後強制的に集められたものである。台地の中央部には四天王寺がそびえ建ち、前方の夕日が丘を中心にして、有名な神社や寺院が今も信者をあつめ、観光客を呼んでいる。
 そして、上町台地の南側には、住吉大社の背後を固めるようにして、空襲に会っていない何十という神社やお寺が適当な距離を置いて存在し、それぞれの地域に根付いて活動しているのである。中には住吉大社よりも古い歴史を持つものもあるという。
 私は機会があればぜひとも「上町台地南部百景」なるものを書いてみたいと真剣に思う。

十三仏は太閤の忘れ石から

 今回はその中から、宝山寺・十三仏を紹介する。
 この寺院は、万年山と号し、平野大念仏寺派末。寺伝によると、惠心僧都が四十ニオの厄除けのため、天元五年(九八二)に融通念仏宗の念仏堂を創建したことに始まる。本尊阿弥陀如来像は惠心自作と伝える。元亀二年(一五七ー)宝泉上人が本堂を建立、現在の寺名になった。堂宇は元和元年(一六一五)大阪<ママ 坂?>の陣で失、寛永十一年(一六三四)再建、その後修復を繰り返している、という。
 宝泉寺の前を行き過ぎようとして、ふと視線を感じて振り返ると、街道沿いにあるお堂のような中に人影がする。近付いてみるとお堂には「住吉名所十三仏」と書いてあり、等身大の石仏が十三体ずらりと街道に面して並んでいる。「立派な」と思わず声を上げてしまう程、見事な、傷一つない仏たちである。
 不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・楽師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦(しゅく)如来・大日如来・虚空蔵菩薩等である。
 七福神が生きている間の守り神であるように、十三仏は死後の世界の救済者である。これだけの本尊を網羅すれば、救われること疑いなしとする気持ちのあらわれである。
 十三仏の石材は、この付近から出土したものと伝えられるが、一説には豊臣秀吉が大阪城築城に際して集めた巨石が、何かの事情で置き去りにされたのを、十三に割って活用したと云われている。十六世紀後半の作と推定される。

一度洗ってあげたい十三仏

 実は、十三仏が沿道のほこりにまみれて、 特に頭や肩の部分が黒くなっているのである。露天であれば雨で洗われるが、お堂の中なのでそうはいかない。仏像を洗うということは、いいことかわるいことかは知らないが、水掛け不動さんの例もあることだし、いつも由来書等を気安く下さる住職に、今度こそ勇気を出して聞いてみようと思う。

今昔木津川物語(053)

◎阪堺電車 上町線

 平安時代中期以降鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、王朝貴族から庶民にいたるまで盛んであった、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社)への道は、京都の永観堂を発ち船で天満の渡辺の津(松坂屋付近)に着いて、四天王寺、阿倍野王子神社、住吉大社、遠里小野を通過して、堺から和歌山に至るものであった。
 今では、この熊野街道も住吉区に入る少し前から、府下に残る唯一の路面電車である阪堺電車上町線と平行して、しばらくは幅広い道路を南下する。

チンチン電車元は馬車鉄道

 上町線は天王寺から住吉公園の間の約五㌔を途中九つの駅に止まりながら、約二十分かけて走り抜ける、一両編成のチンチン電車である。しかし今ではチンチンと発車の合図を送る車掌のいないワンマンカーである。
 上町線は明治三十年五月に、四天王寺〜上住吉間を馬が車両を引き軌道を走る大阪馬車鉄道として発足した。明治四十年に電化、大正二年六月住吉公園まで開通した。

船場商人が帝塚山宅地造成

 当時の沿線の状況は「住吉の岸の姫松」という、松林の茂った昼でも薄暗い場所であった。船場の繊維関係の経営者らが、このあたり一円を住宅地にしようと「東成土地建物株式会社」をつくったが、イメージが悪くて売れない。そこでエリー卜教育を目指すグループと組んで、帝塚山古墳の東側に帝塚山学院を創設、大正六年五月に開校した。
 土地会社の思惑は当たって、以後「高級住宅地の帝塚山」として発展して行った。
 浪華の南ひと筋に
 連なる丘のここかしこ
 みどりの森の影清く
自然の恵みゆたかなる
野こそ我らの庭なれや
   (庄野貞一詞)
 これは昔の帝塚山学院の校歌だが、開校当時の付近の状況がよく現わされている。もちろん今は、大邸宅に替わって中小のマンションが林立し、帝塚山古墳や万代池等の名所旧跡も電車の車窓からでは瞬間的に見えるだけである。

上町線の魅力の秘密とは

 ところが上町線の魅力の秘密は、実は最後の五分間位から始まるのである。
 帝塚山四丁目駅から終点の住吉公園駅までは、枕木を敷いた専用のレールの上を電車は走る。先ず、駅を離れると電車はゆるい上り坂を左へ曲がりながらコトコトと確かめるように登りだす。両側には草花も咲いている。終戦直後にはここで野菜をつくる人もいた。そんな思いにひたっていると、突然前方に青空が広がり始め、電車が半分飛び出したような錯覚に陥りはっとすると、電車は右に急回転して停車していた。神ノ木駅である。目の下には南海高野線が十両近く連結して驀進している。しかし、神ノ木駅は高架ではなく土手の上にしっかりと造られている。

タイムトンネルの中を行く

 電車は今、上町台地の西端に爪先で立っているみたいだ。前方には急な坂が曲がりくねって待っている。地形的に高い建物は建てられないのか、風景は三十年位あまり変わっていないように思う。生根神社の鎮守の森の背景に、住吉大社の鬱蒼とした森が見える。
 神ノ木とは住吉大社では松ノ木を神木としており、近くに明治二十年頃まで樹齢千年余の松の大木があったことから付けられたものである。

百年のジェットコ—スター

 さて、電車は意を決したかのようにブレーキを外した。最初はゆっくりとすべるように動きだしたが、すぐに加速し始めた。沿線の緑が赤が黄が目に飛び込んでくる、電車は右へ大きく力—ブしてその反動を使って左へまた大きくカープを切った。ゆれる乗客、きしむ車体、レールが光って流れる。そして気が付くと、電車は住吉大社の北側の参道の前の「住吉駅」に無事着いていた。賢明な読者の皆さんはすでに感じておられる通り、これは間違いなく昔のジエツトコースタ—である。百年前に我々の先輩達はこんな素敵なものを残しておいてくれていた。毎日の生活の気分転換に、一度乗ってみては。ひよっとしたら、あなたと車内でお会いするかも知れない。
 さて熊野街道の方は、帝塚山四丁目駅から上町線と離れて坂を徐々に下がり始め住吉大社の裏口、東側に達する。この辺りには歴史的な神社や仏閣が数多くあり、それぞれがほぼ昔のままの姿で今も人々に訴えていることはすごい事だと思う。また、街道の面影を残す代表的な地域でもある。

今昔木津川物語(052)

◎田ノ川子安地蔵尊(西成区千本南一ー 一四)

 私は盆踊りが大好きだ。
 あの終戦直後のこと、人々はまるで何かに付かれたように、各町会で勝手に道路に舞台をつくり、素人芸能大会などを行なった。戦時中は冷遇されていた芸人達が、引っ張りだこで、かけもちをやっていた。
 工場の食堂は、夜は社交ダンス場に早替わりした。労働者も地域の商人も、ー緒になってステップを踏んだ。子供が見学していても誰も怒らなかった。子供にも楽しむ権利があると、思っていたのかもしれない。

いたるところで盆踊り

 夏に盆踊り大会だ。あらゆる空き地が会場になった。
 誰の顔色をうかがうこともなく、踊りたければ勝手に輪の中に入っていける。
今までは考えられなかったことだった。
 「踊る阿呆に見る阿呆おなじ阿呆なら踊なら<ママ なら?>損々」が、目の前で実際に行われている。「これが平和というものなのか」と、私は子供心にも感じるものがあった。今から思えばあの時の衝撃が、私のその後のささやかな平和運動の原点かもしれない。

私は「踊る阿呆」

 私は、どちらかといえば踊る阿呆の方で、区内の大きな盆踊り大会には、友達を誘ってほとんど参加していた。ついに、高校二年の時には、南海本線泉大津駅前での市あげての徹夜の盆踊り大会にもぐりこみ、夜明けに海水で顔を洗って、始発電車で帰って来たことを今でも鮮明に記憶している。しかし、さしもの盆踊りブームも、テレビの普及と共に大きく後退していった。

着実につづく盆踊り大会

 今年も西成区では千本、玉出、弘治校下などで街おこしとして盛大に行なわれたし、私たちが主催の一員でもある「平和盆踊り大会」が、最近の十数年間は松通り公園で連続して開催されている。もちろん私は今年もそのすべての大会におじゃまをして、心ゆくまで踊らせていただいた。

閻魔地蔵尊六道の辻

 私は八月の下旬にしんみりとやられる、地蔵盆での盆踊りにはひとしおの思いを持っている。それは、東粉浜の閻魔地蔵尊前の七つ辻の一角に、戦後十数年間住んでいたことによる。
 毎日のように、子供が連打する鐘の音、お百度参りのお経、ローソク台のゆれる灯りと、香の煙と香。地蔵盆にはそれに加えて、山伏の祈祷と天井をなめる炎、露店の呼び声とカーバーライトの光。そして、しなよく踊る娘達の足元で、秋の虫が鳴きだしていた。

田ノ川子安地蔵尊の由来

 私は今年も近所の「田ノ川子安地蔵尊」の盆踊りに参加した。私は今回は踊りだす前に、お地蔵さんのお姿をつくづく眺めて、地元の方に日頃から疑問に思っていることを聞いてみた。
 それは、田ノ川地蔵さんは中学生位の大きさであるが、坊主頭に右手に錫杖、左手に宝珠という本来の地蔵さんのスタイルとも少し違うし、全体としていたみがはげしく、石にしては重みが無さそうなので、思い切って「このお地蔵さんは、昔々田ノ川に流れ着いたのかなにかですか」と。
 事実、お地蔵さんが流れて来たという話は多い。閻魔地蔵は難波の浜に流れ付き、空襲除けで有名な天下茶屋の波切不動尊は津守新田から掘り出されたことになっている。

戦跡として語り継ぐこと

 ところが私のちよつと失礼な質問に対して、地元の人の答えは「あの地蔵さんは、息子さんを戦死させた左官屋さんが自分でセメントを塗ってつくったものだと聞いています。だいぶ傷んでますが大切にしたいと思っています」というものだった。
 田ノ川とはこの近くを東西に流れていた川で、明治時代にはまだ水がきれいで「水屋」が売るために汲みにきていたという。実は、玉出町(旧勝間村)を全滅させた大空襲の北限が田ノ川付近であり、盆踊りをする広い道路は戦災復興区画整理事業の結果だということも、その時に地元に人に聞いた。
 戦争の惨劇を風化させないことも、郷土史研究の大切な仕事だとしみじみ知った、今年の長い長い夏であった。

今昔木津川物語(051)

◎勝間(こつま)と玉出を「古地名」でみてみれば

 「西成郡史」などによれば、旧勝間村「現在の西成区玉出」は仁治年間(一ニ四〇—一ニ四三)に住吉神社の北、大海神社の辺りに当時あった元勝間村の人口が増加してせまくなったため、現在の土地を開発し住民を移住させたことに始まるという。それを証明するものとして光福寺に、「創始は嘉祥元年(八四八)奈良興福寺の別院として住吉玉出の里に創建、松林山興福寺と号したが、元応元年(一ニ一九)門信徒の要請により建物のすべてを移し光福寺と改める」と伝えられている。

勝間が玉出になったわけ

 大正四年の町制移行のときに「勝間商人」はすばしこい、との評判を嫌って玉出町にしたという話は残っているが、元々住吉では玉出の岸に勝間村があったともいわれている。
 そして、勝間は昔は、古妻・木妻・木積・古夫・勝玉などいろいろに書かれそれぞれに意味付けがあったという。住吉神社建築の材木を積み上げたとか、石山合戦で織田勢に勝ったからだなど。

上町台地の崖に寄せる海

 先日、府庁図書室の棚の奥から古びた、昭和三十年発行の「古地名の謎」(近畿アイヌ地名の研究)という小冊子を発見した。著者の畑中友次史によれば、どうやら「こつま」とい、つのはアイヌ語で「崖」という意味らしい。上町台地の西端にあった元勝間村にふさわしい名前だと思った。今でも大海神社の前の地形にはその名残が残っている。また「たまで」とはアイヌ語で「海」をあらわすという。こつま「崖」によせるたまで「海」。これは絵になる。これで「勝間と玉出は一緒のことや」とい、つ意味が解けたことになる。

全国でアイヌの古地名存在

 先住民族としてアイヌの人々は近畿 でも多くの古地名を残している。しかし、残念ながらアイヌ語には文字がなかったため、後からやって来た人々が、色んな当字を付け解釈しているのがほとんどである。アイヌ語と古代日本語の多くが一致するため「アイヌは文字を持たなかったから日本語を借りた」という説があるが、「こつま」の例一つをみても逆だということが云えるのではないか。

今昔木津川物語(050)

◎「長崎橋」の”なぞ“を解く(西成区玉出西一ー 一七)

 安治川を開削した河村瑞賢は、元禄十一年(一六九八)に再度来阪し、木津川より分岐し南へ向かい堺の北で海に注ぐ、長さ四十四町(約四・八㌔)、幅十三間(約二十三・七㍍)の十三間堀川の設計を行なった。
 十三間堀川の名はその川幅が十三間あったからだと伝えられているが、古文書によれば幅十間とある。津守新田開発を控え、かんがいと舟運の便の為だけでなく、掘り出された土は新田づくりに有効に使われたにちがいない。

十三間堀川は元観光の名所

 十三間堀川は明治の初めころまでは、両岸に松の並木や揚柳があって、たいへん風情に富んだ観光地だった。住吉詣での屋形船が、三弦に盃をめぐらす遊客を乗せてひんぱんに往来し、橋詰には蛤汁を吸わせる茶店もあった。
 しかし戦後は、沿岸一帯の市街地化、工場排水のたれ流し、ゴミの不法投棄などによって、悪臭を放つドブ川と化していた。世間は自動車時代に、全市的に多くの運河は埋め立てられ、大半は自動車の高速道路になった。十三間堀川の場合は万国博に合わせて、阪神高速道路大阪堺線が埋立て跡を利用して、堺市翁橋町に至ることとなり昭和四十四年(ー九六九)三月にその開通をみた。これで地元の地主達が費用を出し合ってつくった十三間堀川は、木津川地域の発展にさまざまに貢献しながら、二七〇年の歴史の幕を下ろした。

橋の名から幕末の歴史が

 さて、十三間堀川にはもちろん多くの橋がかけられていた。西成区内だけで一三ヶ所もあったが、その中で橋の名前の由来が不明なものがいくつかあった。その一つに、玉出本通りからまっすぐ西へ行き、そのまま川を渡って南津守に達する「長崎橋」というのがあった。
 西成区役所主催の座談会「津守を守る会」の記録によれば、地元の方は「幕末に黒船が大阪にやってきて大騒動になり、幕府は安治川・木津川両川口に大砲を据えて防衛することになった。木津川は千本松のところに砲台をつくるのだが、紀州街道の方から大砲を運びこむとして、十三間堀川には大砲を渡らせるような丈夫な橋はない。あるのはせいぜい人が荷物を担いで渡るだけの幅㍍もないような木造の橋である。そこで幕府が、今後はつくらんがこの橋だけは特別だ、と言って造った橋がこの長崎橋だ」と述べているが、その前例のない鉄橋の名がなぜ『長崎』かということについては、残念ながら聞けていない。

先人のメッセ—ジが郷土史

 そこで私は、先日たまたま松本清張の小説「天保図録」を読んでいて知ったことだが、ペリ—来航時の嘉永六年(ー八五三)頃、江戸の江川太郎左右衛門と共に国防の第一線で活躍したのが、長崎の鉄砲方の家に生まれ、その職を世襲した砲術家高島秋帆で、幕末の砲術家の大半は彼の影響を受けたといわれる、という歴史の事実である。
 ここで私は推理するのだが、千本松に据えられた大砲は長崎から運ばれてきたのか、砲台づくりをまかされた高松藩の砲術家が高島秋帆の弟子で、師に敬意を表したか、それとも彼自身が長崎出身であったのではないかということである。
 郷土史には、お国自慢的な、独り善がりのものが中にはある。しかし「史」というからは地方史、中央史との関連で考えなければならない。そうすることによって、実は長年不明であったという謎も、 解明されてくるのではないか。「逆説郷土史」も面白い。

今昔木津川物語(049)

◎大阪港

 大阪湾は紀淡海峡で太平洋に、明石海峡で瀬戸内につながっている。西の方からは強い風が常に吹き付ける。そのため入船にはよかったが、出船は風向きを見なければならなかった。川底は上流からの土砂で常に浅くなっていく。
 昔は船体が大きな船は一旦、河口で停泊し、そこから小船に積み替えて、河岸や掘割りに並ぶ蔵屋敷に持ち込んだ。
 明治に入ってからも、隣の神戸と比べると大阪港には大きな船はほとんど入っていない。大阪港は神戸港におくれをとってしまった。

大阪港の大改造で大阪発展

 大阪港を根本的に改造するには、強い西風を避けるため、海の方に突き出た防潮堤を築いて港のふところを大きくし、接岸設備を思い切って増設しなければならない。
 大阪市は、明治二十五、六年頃から調査にかかったが、日清戦争で中断し、新淀川の完成を控えた三十年にやっと築港事業が議会を通過した。
 工事は予定より遅れて、大正十四年に完了した。昔の天保山は取り払われ公園となり、そこから幅二十七㍍、長さ四百五十㍍の大桟橋が造られた。その他に護岸・上屋・臨港鉄道などが整備された。
 この築港に接する西大阪地域は、その当時まだあまり開かれていない空き地の多い地域であったが、市電が真つ先に敷設され「魚つり電車」といわれながら、がら空きで走っていた。
 その後この地域一体は、工場や住宅の用地として埋め立てられ、「港区」の誕生となる。

大桟橋が「大出征基地に」

 大栈橋から日露戦争に大量”の兵器を船出させたのを皮切りに、その後敗戦までの間全国各地から軍隊が集結、それぞれ戦場に向け船出していった。
 築港工事と共に計画された国鉄臨港線は、関西線今宮駅から分岐し、尻無川沿いに下って港区西端の天保山運河近くまで達し、途中振り分けられた貨車は、そのまま各岸壁のプラットホー厶に直接横付けできるというものであった。
 戦時中は軍事輸送一色となり取扱量も急増、各地から集められた軍隊は、なぜか途中の浪速駅で下車し、人家のあまりない海岸通りを行進して船に乗り込んでいった。

「国防婦人会」発祥の地に

 出征していく夫や息子の無事を祈って、家族が戸別訪問や駅に立って、ひと目ひと目結んでもらった「千人針」をなんとか手渡したいと、近くの旅館に泊り、最後の機会を「海岸迥りの行進」にかける人もあったのではないか。この兵士や家族たちの何か役に立ちたいと、地元港区の女性たちが自然と活躍したのを、軍部は「国防婦人隊」という戦争協力団体につくりかえ全国にひろめさせた。
 後に港区は空襲でほぼ全域が焼きつくされ、港区戦没者慰霊碑の過去帳に記載されているだけで犠牲者は二千八十人にのぼる。この過去帳は西栄寺の住職が昭和三十年頃、港区役所の地下倉庫にあった「埋葬許可書」から丹念に拾いだした貴重なものである。
 港区が「大出征基地」にされたために大空襲の標的になったと、地元では毎年欠かすことなく、反戦平和を誓いあうあつまりをもって、戦争の悲惨さを語り継いでいる。